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くれないづきの見る夢は 紅い涙を流すこと 透明な血を流すこと 孤独にのまれず生きること
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 僕は昔から地図が好きだった。地図を見ていれば旅行に行ったような気分にもなれた。両親からは安上がりな子だ、と言われた。
 今、自分が安上がりかどうかはよく解らない。日本地図、世界地図、観光地図にゼンリンの地図。あげくの果てには、古びた、けれども一目で偽物だと解るような徳川埋蔵金の地図まで、地図と名の付く物なら何でも手に入れなければ気が済まなくなっていた。

 古書店の並ぶ町の裏通りの一角。今まで気づかなかった小さな店があった。そして、その店で見つけた地図は一見、どこにでもあるような古びた地図だった。だが、その地図が僕を呼んでいる様に感じていた。その感覚はたいがい正しい。自分の手元にそれがないことを頭のどこか一部で絶えず理解している、ということなのだ。
 今回も、その感覚に従って地図を手に入れることにした。そうそう高い物ではなかったので躊躇もせず、僕は当然のことのようにそれを求めた。
「あんた、その地図で山歩きをなさるんかい?」
 店番に座っていた老婆が僕にそんなことを聞いた。どうせ、古い地図だから当てにならない、とでも言いたいのだろう。よっぽど、見れば解るよ、と言ってやろうかと思ったが、それはどう見てもただの古地図で山岳地図には見えなかったので、思わず聞いていた。
「山歩き? これ、どこの山の地図なんだい?」
 老婆は僕の顔をまじまじと見て、そんなことも解らないで買おうとしているのか、とでも言いたげな顔をした。
 僕はもう一度地図をよく見る。曲がりくねった道に住所と名前らしきものがミミズののたくったような字で書かれているそれは、僕にはどう見てもどこかの田舎の村の地図にしか見えない。描かれる道幅からすると村のようだが、その戸数の多さと古びた字体から、かなり昔の物だと、僕は理解していたのだが…。
「そいつはね、樹海の地図なんだよ」
 老婆がやっと教えてくれた。
「樹海? 樹海ってあの富士の裾野のあの樹海かい?」
 僕がそう問い返すと、老婆は大きくうなずいて見せた。そのもったいぶった様子に僕は苛立ちを覚えたが、そんなことよりも目の前の地図のことが気になってしょうがなかった。
 富士樹海の地図。それなら、僕も持っている。言われてみれば、その道筋の描く模様に、見覚えがないこともない。だが、樹海の地図に、住所らしき文字の羅列や、名前が書かれているのはなぜだろう。
 そんな疑問が表情に出ていたのだろう、老婆が僕の顔を見て、薄笑いを浮かべたようだった。その表情に背中がゾクリとする。
「そこに記されておるのは、あの森で死んだ連中の名前だよ。よく見てみろ」
 言われるままに、じいっとそこに書かれている文字を見ていると、やがてその文字がなんとなく理解できるようになった。『東京都』『神奈川県』『山梨県』『大阪府』、『沖縄県』『北海道』などと記されているものまで……結構多岐にわたっている。皆が皆、そこを死に場に選んで来た訳ではないだろうが……。
 僕は急にそれが薄気味悪くなる。老婆の顔とその地図を見比べ、それを我が物にすべきかどうか悩んだ。
 死者の住所や名前を控えた地図、誰の物だったのだろう? 僕にしては珍しく、前の持ち主のことまで気になってしまう。だが、地図マニアの僕としては欲しくないと言えば嘘になる。
 実際、僕は突拍子もない地図も持っている。過去、事故のあった所ほぼすべてに印の入った道路地図や、殺人現場に印をつけた地図。だが、それらだってここまではっきり、自宅番地まで記された物ではなかった。
 老婆はそうやって逡巡する僕の顔をおもしろい見世物か何かのように眺めている。その顔に、お前はこんな気持ちの悪い物を買って帰るような度胸はないんだろう、と嘲っているような笑いを見た気がして、気がつくと僕は老婆の前に記されているだけの金額の紙幣を置いていた。
「いいかね、忠告はしたよ。その地図で山歩きなぞ、するんじゃないよ」
 薄気味悪い老婆の笑いに見送られて、僕はその店を後にした。

 それからしばらく、その地図のことを忘れていた。僕は手に入れた地図を定期的に開いては眺めるのを楽しみにしているが、さすがにその地図を開いて眺める気にはなれなかった。

 その地図を開いてみようという気になったのは、ニュースで樹海に不明者の捜索が入ると言っていたためだった。 ふとした気の迷いなのだろう、その地図に名前までは分からなくても、不明者の発見された場所ぐらい記してみよう、という気になってしまったのだ。
 地図を開いてみて、僕は違和感を覚えた。購入した時に見たものと、どこか違う気がする。
 記入されている名前が増えている……?
 そんなことはあり得ない、と否定する。少し疲れているのかな、と僕は自分自身にそう言い聞かせた。
 捜索は明日の朝から入るのだと言う。早ければ、明後日の新聞に何か情報が載るだろう。インターネットを調べれば、詳しい場所もわかるかもしれない。

 どんな地図でも、地図で何かをすると考えると、わくわくしてしまうのを押さえられない。そんな思いで、僕は新聞と地図を広げた。
 そして我が目を疑ってしまう。記入されている名前が、明らかに減っているのだ。
 それをどう捕らえるべきか……。僕は恐ろしくなって、その地図をただ眺めていることしかできなかった。

 その翌日、僕はそれを店に返品しようと思い立って、老婆の店を探した。
 この辺りだったはず……僕は見当をつけた辺りを歩き回ってみたが、その店を見つけることはできなかった。
 店があったと思われる辺りは小さな路地で、いくら探しても建物すらなく、その辺りを歩いている人に聞いても、そこには最初から店などなかった、と言われるばかり。
 持っている地図は、さらに薄気味悪さを増したようにも感じられ、店を見つけようと焦れば焦るほど、気持ちの悪い汗をかくばかりで、僕はすっかり疲れてしまった。
 捨ててしまおう、焼いてしまおう、そんな思いが心の中を過るが、どんな理由があれ、そのコレクションの対象を傷つけることなど、コレクターである自分にはできないことであるということも十分にわかっていた。
 どこかで買い取ってもらおうにも、ただ古びただけの地図では引き取ってくれるところもない。
 僕は仕方なく、それを持って帰るしかなかった。

 疲れからか、その夜、僕は変な夢を見た。
 それは一見、普段よく見る夢のように始まった。
 地図を見てその町を想像し、夢の中で歩く。いつものように。けれど、歩いたのは樹海……。
 僕は遠くに富士を見ながら森の中を奥深くまで進んで行く。
 手元の地図を見る。有るか無しかの道を、行き先を知っているかのように進んで行く。
 目指しているのは……記された名前の場所。そして僕はそこに……。

 自分の悲鳴で目が覚めた。現実味がまったくないくせに、妙にリアルで……。そして、僕はその地図の秘密を知った。

 もう頭の中にはそれのことしかなくなっていた。人間心理として、怖い物見たさなのだろう。
 徐々に増えてゆくその書き込みを、僕は二年間もの間、じっと見守っていた。気をつけて見ていると道も出来たりなくなったりしているようだ。
 一体、この地図はどうしたものなのだろう……? 疑問は募るばかりで、僕はとうとうその地図を持って樹海へ向かうことにした。

 地図を片手に樹海に入る。地図で見る限り、一番近い記名場所まで二時間。
 さすがに一人で行くのには抵抗があったので、友人をトレッキングだと言って誘った。
「正確な地図を持っているから大丈夫。片道2時間ほど歩いたら、帰路に着くから。それなら安心だろう?」
 樹海だと聞いて渋っていた友人も、僕の地図マニアぶりを知っていたのでそう聞いて安心したように、トレッキングに付き合うと言ってくれたのだった。
 天気の良い日曜日、僕と友人は二人で樹海へと入り込んだ。友人は僕が地図を見ながら迷う風もなく歩を進めるのに付いてくる。
 そして二時間後、僕は見つけたいものを見つけていた。
 友人には気の毒だったと思う。僕たちは警察を呼んで話を聞かれて……。
 落ち着いてから地図を見ると、案の定、その場所から記入されていた名前が消えていた。
 やがて僕は商売を始めた。そんな商売など成り立つ訳はない、と半信半疑だったが、やってみると、結構儲かることが分かった。
 樹海トレッキングツアー。僕と出掛けると、必ずと言って良いほどそれを見つけた。当たり前と言えば当たり前だ。僕はそこへ向かう地図を持っているのだがら…。人間の心理とは不思議なもので、そんな噂が広まれば広まるほど、ツアーの客は増えていった。
 地図のことがばれるのを恐れて、マスコミ関係の仕事はすべて断った。あまり何度も続くうち、警察も不審に思いだしたらしい。しばらくして、僕はツアーガイドをやめた。
 そうして、次に始めたのは、不明者捜索の訪問販売だった。
 地図に記載される文字は、名前と住所。地図に記された住所を訪ねて家族に会い、探すことを望んでいるのであれば、話を持ちかける。
 死人を飯の種に、僕は生活を続けた。胸の悪くなるような物を幾つも見たが、やがて慣れてしまって僕は何も感じなくなっていた。何が恐ろしいと言って、そうやって感覚がマヒしてしまうのが一番恐ろしかったかもしれない。

 僕は久しぶりに夢を見た。地図で街を歩く夢…。
 地図には誰かの名前が書かれてあった。どうやらよく知っている人物のような気がする。
 いくら見慣れたとは言え、知人のを見るのは勘弁だな……とか思いながら、僕は足を止めることが出来ない。
 心のどこかで、それは夢なのだ、と理解している。
 そしてそこで見たものは……。

 目が覚めると肝心な部分を全く覚えていなかった。僕は夢の中で誰の死体を見たのだろうか?
 その日も、僕は依頼で……訪問販売で、と言った方が正しいか……樹海に入ることになっていた。
 いつものようにアシスタントの青年と二人、樹海へと分け入る。良い天気だった。いくら慣れたとは言え、どんよりとした曇りの日に樹海に入ることはしない。山の天気は変わりやすいし、薄暗い中での死体とのご対面もあまり嬉しいものではないからだ。
 地図を確認しながら歩く。アシスタントの青年もよほど神経が図太いのだろう、毎回死体を見ているが、今も「良い天気ですねぇ。トレッキングには最高だ」などと言いながら呑気に僕の後ろをついて来る。
 僕は少し立ち止まって、地図をじっくりと眺めた。僕たちがこれから向かおうとしている方向に何やらシミが浮き出しているように見える。
 そこで誰かが死のうとしているのか、死んでいるのか……。地図の記入がどの段階でなされているものなのか、僕にはこれまで調べることは出来なかった。不謹慎にも、それを調べる良い機会だと思ってしまい、僕は足を速める。地図を見ながら、足元を確かめながら……。
 ……………? 地図に記された場所を過ぎても、僕は死体にも生きた人間にも出会わなかった。どうなっているのだろう、と地図を穴が空くほどに凝視する。読み取れるようになった地図の文字は………。
「おいっ! そこを通るな!」
 僕の制止は一瞬遅く……アシスタントの青年はツタに足を取られて転び、その場にあった大きな石に……くぐもったようなうめき声がその口から漏れ……。
 地図には彼の名が浮かび上がっていたのだ。
 僕は恐る恐る彼に近づく。その体はピクリとも動かない。
 脈を取ってみる勇気は僕にはなかった。ただその場から去りたい一心で闇雲に走った。
 苦しくて苦しくて、息が詰まりそうになり、僕は走ることが出来なくなって膝を付く。
 しっかりと握り締めていた地図を開く。あまりに必死に走ったので、自分が今どこにいるのか、わからなくなったのだ。地図を見て、周囲を見回して、自分のいる位置を確認する。
 大体の位置を把握した所で、僕は地図上にまたシミを見つけた。
 虚ろな目で空を見上げて死んだ青年の顔が思い浮かんだ。
 もう、たくさんだ。もう、帰ろう。樹海を出たらこの地図は燃やしてしまおう。僕は樹海を出るために歩きだす。
 足元を見ながら、ゆっくり確実に道を辿る。
 目の前に、二本の足がぶら下がっているのを認め、僕は足を止めた。
 地図を確認する。そこに死体はないはずだ。だが、目の前にある足の持ち主は……目をあげると、どこかで見たことのあるような老婆が木にぶら下がって僕を見下ろしていた。
「ちゃんと忠告はしておいただろうに……。その地図で山歩きをしてはならん、って……」
 首を吊って、当然死んでいるはずの老婆が口を開いて、にやにやと笑って見せる。そう、地図を売っていた老婆だ……。
 その老婆を見ていてはいけないような気がして、僕はもう一度地図に目線を落とす。
 シミが、何とか読み取れる字を描き出していた。
 そこには、僕の名前……。
 狂ったように僕は走る。一刻も早くこの森から出るんだ。老婆の忠告を無視した結果がこれなのか…。
 真っすぐに樹海の出口に向かっていたはずなのに、僕はもう、今、自分のいる所を把握することが出来なくなっていた。

 大きな穴が口を開け、僕を待ち構えている。
 そう、それは昨夜、夢で見た光景……。
 僕はその穴に落ちる。

 地図が僕の名前を刻んでゆくのを眺めながら、恐怖とともに僕は死ぬのだ……。








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「Trick or treat!」
 子供たちの声が聞こえ、私は読んでいた新聞から顔をあげる。
 階下でハドソン夫人がその子供たちにお菓子をあげているのだろう、子供たちの嬉しそうな声が聞こえ、私は薄く微笑んだ。
 今日ばかりは子供たちが遅くまで出歩いていても怒られない。そのせいか、少し霧のかかったこの街が少し暖かく、賑やかに感じられる。
 私は新聞を座っていた安楽椅子に置くと立ち上がり、窓辺に立った。
 外を子供の影が走って行くのが見える。
 小さな可愛い妖精や、魔女、御伽噺に出てくる悪魔の姿の子供たち。
 それに混じって見える大人は…きっと子供たちの付き添いなのだろう。
 道を行く人々も微笑ましげに仮装した子供が通り過ぎるのを見て、馬車も今夜ばかりは少し速度を落としているようだ。
 何の事件もない、暇な夜。人ならざる物が跋扈すると言われているこんな夜は、暖炉の前で座っているのも悪くはない。
 人が起こす事件だけでたくさんだ、と思う。こう言う仕事をしていると、けっこうそうではない事象も事件として持ち込まれてくる。
 若い頃に一度、それで痛い目を見てから、私は自分が依頼を受ける事件を選ぶ事に慎重になった。
 ワトスンにはそれが、選り好みをしているように見えるらしいが…。
 窓辺から離れ、私はもう一度新聞を手に取る。
 階下で物音がする。また新しい子供の団体だろう…でなければ、ハドソン夫人がハロウィン用の夕食の支度をしてくれている音か…。
 少し特徴のある足音が階段を上がってくる音がして、私の考えが外れていたことを知る。
「Trick or treat!」
 部屋のドアを開けるなり、そう言ったワトスンは出来そこないの新郎のような格好をしていた。
「……Trickを希望するね…」
 私は溜息混じりに答えた。
「なんだい、その格好は? 変装にしてももう少しやりようがあるだろうに…」
「今日はハロウィンだよ、ホームズ…」
 少し心外だという顔をしたワトスンに私は結局、真面目な顔を続けることが出来ず、吹き出した。
「そのおかしな仮装は外して来たまえ。もう少ししたらハドソン夫人がハロウィン用の特別メニューを用意してくれるさ。そんな格好で驚かれたくはないだろう?」
 階下から彼女の料理の美味しそうな香りが漂ってくる。
 ワトスンは手に持っていた小さなカボチャのランタンを暖炉の上に置くと、服を着替える為に自室へと入った。
 小さなランタンが私の部屋を子供たちがいる街の中のように少しだけ暖かくした。



ワトスン先生が朝起きだすと、ホームズさんは珍しく、もう朝食のテーブルに着いていました。
「おはよう」
 挨拶をしてワトスン先生は食卓に着きました。呼び鈴を鳴らしてハドソン夫人に朝食を持って来てもらう間、ワトスン先生は新聞を手に取りました。
 いつもならば、ワトスン先生が新聞を読んでいると、
「何か面白い記事はないかい?」
と、聞いてくるホームズさんが、今日は黙っています。不思議に思いながらも、ワトスン先生は新聞を読み続けていました。
 そのうち先生の分の朝食も出来まして、彼も食べ始めます。
「キミが好きだ」
 いきなり、ホームズさんが、思い詰めたような声で言いました。
 ワトスン先生は慌てます。それはそうでしょう。ワトスン先生もホームズさんも男なんですから。特に女好きのワトスン先生には、男からの告白なんて気持ち悪い物以外の何物でも無いのです。
 大きな音を立てて、ナイフとフォークをお皿の上に落として、ワトスン先生は立ち上がりました。
「な…何のつもりだ…ホームズ…私は男だよ。それに君も…その気持ちが英国紳士にあるまじき感情だと言うことを知らない訳でもあるまい…」
 ワトスン先生は逃げ腰になりながら、必死に言います。そうですよ。男と出来た、なんていうことになったら一大事です。そんなスキャンダラスな事になったら、医者としての身分が無くなり、そしてなにより、もしかするとワトスン先生にはこちらの方がこたえるかもしれませんが、大好きな女に白い目で見られて、相手にされなくなってしまいます。それでは、ワトスン先生にとって、人生がなんたるやわからない、といった状況になるに決まっているのです。それだけは避けなければいけません。
「僕は、キミが好きなんだ」
 ホームズさんは、もう一度言いました。
「ホームズ、君がそんな目で私を見ていたというのなら、私は今すぐ、この下宿を出るよ」
 最終手段です。ワトスン先生はそう言うと、自分の部屋へ荷物をまとめに行こうとします。
「待ってくれ、ワトスン。僕はキミが好きだと言っているんだ」
 そう言いながらホームズさんは、その手に持った物をワトスン先生に見せたのです。
 ホームズさんの手には、エッグスタンドに乗ったゆで卵がありました。
 それを見たワトスン先生は、大きく溜め息をついて、食卓に戻りました。
 それ以降、ワトスン先生は、ホームズさんの前でゆで卵を食べようとはしなくなりました。ホームズさんが、物欲しそうな目で見ているような気がすると思ってしまうからだそうです。











1990年 JSHC・マロニエ支部会誌に寄稿
ホームズが見慣れない拳銃を磨いている。それは英国製のものではないらいしく、従軍以来銃に興味を持っている私にも物珍しさを与えるものだった。
「君は随分とこれの事が気になるようだねぇ」
 私を見上げもせずに、彼はそう声を掛けて来た。実際の所、私は本を開いてみたものの目は飽きることなく、彼の手元を眺めていたのだ。彼は顔を上げると、私にその銃を差し出した。受け取るとそれはずっしりと重く、綺麗に磨かれた銃身に私の顔が映っていた。随分と使い込まれたものらしく、グリップやトリガーは黒光りしていた。
「アメリカ製、コルト社、だな」
 私はそれをホームズに返して言った。
「ご名答。さすがに君は銃を使うだけあって詳しいね。これは、友人の形見なんだ」
 そして彼はパイプに火をつけると昔の話を始めた。
「もう20年になるかな。君と出会う1年ほど前のことだったよ。当時はまだ、探偵業が軌道に乗ってなくて、色々なことに手を出していた。役者をしていたのもその一つだったんだが、その劇団がアメリカで興行することになったんだ。僕がそれについて行ったのは、勿論役がついていたからなんだが、そう、見聞を広めるいい機会だと思ったからでもあるんだ。だから、公演が終わった時、それ相応のギャラを貰って別れ、アメリカという国を見て歩く事にしたんだよ…」
** *** **

 幌馬車が荒野を走っていた。カウボーイや医者、牧師などといった土地の人間に混じって、外国人とわかる男が一人乗っていた。彼は旅行鞄と小さな楽器のケースを抱え、目の前の女と子供を見ていた。
 男の灰色の瞳と目があって女は慌てて俯く。それは何の危惧もない日常的な風景であった。
 銃声が聞こえ、馬車が不自然に揺れる。
「山賊だ!」
 不意に日常が途切れ、その馬車は不運に襲われた。御者の叫びで女たちは子供を抱え、男たちは応戦すべく銃を取った。
 馬車の中から外を見ることは出来ず、応戦しようと外に身を乗り出した男が転落する。外国人もそれを手伝おうと自分の銃を荷物から取り出すが、アメリカという国では実用性に乏しい、小さな銃だった。それでも男は勇敢に御者台へと身を乗り出し、銃を連射した。
 あっという間に弾は撃ち尽くされ、銃は大した役にも立たなかったが、男はその馬車にこれから降りかかる悲劇を少し後に延ばすことは出来た。
 男の目の前で御者が転落し、咄嗟に彼は手綱を取った。銃声に驚いてめくらめっぽうに走る馬を操るのは難しかったが、それでも男は夢中で鞭を振るい続けた。何度か投げ出されそうになりながら、すぐ近くを銃弾が掠めるのにも構わず、男は馬を走らせ続け、たくさんの被害者を出しながらも、馬車は山賊を降り切った、かに見えた。
 男が速度を落とそうと手綱を少し引いたとき、ガタッと嫌な音がして車輪が外れた。馬が横転し幌馬車も横倒しになり、半分立ち上がるようにして馬を操っていた男は遠くへと投げ出されてしまう。
 頭を強く打ったらしく、朦朧とした意識で男が見たものは、山賊の餌食になった馬車の姿だった。女は山賊の馬に無理矢理乗せられ、男や子供は一人一人丁寧に銃を押し当てられ、殺される。
「やめろ!」
 男は叫ぼうとしたが出来ず、二三歩そちらに近づくとそのまま意識を失った。遠くに山賊のものとは違った銃声を聞きながら…。

 パチパチと何かがはじける軽い音がして、男は意識を取り戻した。横に火が燃えており、彼が聞いたのは薪の弾ける音だった。辺りはすでに暗く、火の向こうには、人のいる気配があった。
「まだ、起き上がらないほうがいいぜ。頭を打ってるようだからな」
 火の向こうの誰かが声をかけてきた。男の頭には包帯の代わりにかバンダナが巻いてあり、その人物のものだろう、上着が頭の下に敷いてあった。
「あんたは運が良かったぜ。馬車に乗ってた他の連中は、みんな連れ去られるか、殺されるかしちまったからな」
「私は手綱を握っていて、投げ出されたんだ」
 男は起き上がろうとして、火の向こうの人物が手を貸そうと回ってくる。
「そりゃ、本当に運がいいんだな。馬車から投げだされて骨折もしてないなんて」
 男は意外に若く、二十歳をいくらもすぎていないようだった。とはいっても、助けられた男の方もまだ26になったばかりだったが。
「それでも、俺が行くのが、もう少し遅かったら、あんたも死体の仲間入りだったんだろうけどな」
 彼は小柄で、どこか悪戯っ子みたいなところのある男だった。
「ありがとう、と言うべきなのだろうな…」
 彼に助けられたに違いはなかったが、もう少し早く現れていてくれたら、という思いが素直に礼を言う事を拒んでいた。
「私は、シャーロック・ホームズ。君は?」
 助けられた男は助けた男の手を借りて起き上がると、そう名乗った。
「俺は、ボニー。ウイリアム・H・ボニーだ」
 ここに二人の男が出会った。

 ホームズはボニーに珈琲を貰い少し落ち着くと、荷物を取りに行きたい、と言いだした。
「おいおい、あれから何時間経つと思ってるんだ? 今頃戻ったって、何も残っちゃいねぇよ」
 それはホームズにも良くわかっていた。それでも彼は、何日かの間一緒に旅をしてきた馬車や人物の惨状を見ておかなければならないような衝動に駆られていたのだ。
「もしかすると、何か残っているかもしれない」
 ボニーは軽く首を振るとそれでも何も言わず、火を薄暗いカンテラに移し、木陰から二頭の馬を牽いてきた。
「あんた、馬には乗れるかい・ 生憎と一頭には鞍がないんだが」
 一頭は栗毛、もう一頭は葦毛の馬だった。どうやら栗毛の馬は馬車を牽いていた馬らしく、がっちりとしていて鞍を乗せていなかった。
 ボニーが栗毛に、ホームズが葦毛の馬に乗って、二人は現場へと戻った。
「これは…」
 ホームズが絶句してしまうほどその現場の状況は酷かった。これまで何度か、彼は殺人現場を見ていたにもかかわらず…。死体は狼やハゲタカに食い荒らされて見る影もなく、幌馬車も無残に破壊し尽くされていた。
「誰かに…報せたのか…?」
 ともすれば気が遠くなりそうになるのを懸命に堪えて、ホームズは馬を降りた。満月がその惨状を寒々とした光で浮かび上がらせている。
「いや。ここから一番近い町までだって二日はかかるからな。だからこの辺りは犯罪者たちの絶好の隠れ家になるのさ」
 ホームズはただその場に立っていることしか出来なかった。何かが残っているにせよ、その惨状の中を歩き回るだけの気力がなかったのだ。そんな彼を尻目に、ボニーはいくつかの品物を見つけてきた。弾の切れた銃や、少し変わった形の帽子…。
「おい、一体何を…」
 ホームズは続けてボニーの取った行動に驚いて声をかけた。彼は女性の死体を足蹴にしていたのだ。
「死んだ人間には礼を尽くせ、とでも言いたいんだろうがな、死んだ者は所詮、それ以外の何物でもないんだ。…ほら、これはあんたのじゃないのか?」
 ボニーは退けた死体の下から楽器のケースを引っ張りだした。それは間違いなくホームズのヴァイオリンケースだった。
「死体のスカートの下になってて気付かなかったんだろうな。もっとも、ここでこんなもの、何の役にも立たないけどな」
 ホームズは差し出されたそれを手に取り、安堵したようにため息をついた。
「これが無事だったなんて…良かった…」
「あんまり良くもないみたいだぜ」
 喜んでいるホームズにボニーが忠告した。人の気配はしなかったが、馬が何かを恐れるようにしていたし、よく耳を澄ませば肉食獣特有の唸り声を聞くことも出来た。二人は無言で馬に乗り、その辺りにいるものたちを刺激しなようにゆっくりと歩かせた。
 ボニーがカンテラを地面に叩きつけるのと狼が襲いかかってくるのはほぼ同時だった。カンテラのアルコールが地面に広がり、火の手が大きく上ったのを合図に、二人は一目散に馬を走らせた。

「一番近い町まで俺が送ろう」
 二人が焚き火をしていたところへ戻り落ち着くと、ホームズが言おうとしていた事をボニーが言いだした。
「どっちにしても、何処かの町に定期馬車が襲われたことを報せておいたほうがいいし、あんたを助けたのも何かの縁だ。その縁ついでに送るさ。あんただって、こんなところでほっとかれても困るだろう?」
 言いながら、ボニーはホームズに煙草を差し出し、ホームズは礼を言って受け取った。
「しかし、私にはそれに見合うだけの報酬を支払うことは出来ないのだが…」
 自分から口にするつもりのことであったが、いざ相手から切り出されるとそれを頼んでしまっていいものかどうか、ホームズは悩んだ。
「そんなこと、言われなくたってわかってるさ。あんたが文無しだってことぐらい。別にいいんだよ、俺だって気が向かなきゃこんなこと言い出しゃしねぇんだから」
 それでも、そうしたものかと悩んでいたホームズだったが、結局ボニーの気まぐれに頼ってしまうことにした。強がってみたところで、どうしようもなかったのだから。
「もう休んだほうがいい。明日は一日中馬に乗ってることになるから。慣れてない人間には結構きついぜ?」
 そういうとボニーは焚き火が消えないように木切れを何本か放り込み、その場に横になるとすぐに寝息を立て始めた。仕方なくホームズもそれに倣って身体を横たえたが、到底眠れるはずもなかった。

 翌朝早く、二人は東に向って出発した。結局一睡も出来なかったホームズには荒野の朝日は眩しく、目を細めるようにしながら前を行くボニーの背中を追った。馬の遠乗りには慣れていないだろうホームズを気遣い、自分自身も慣れない馬に乗っているせいか、ゆっくりと何度か休憩を入れながら進んだ。
 見通しの悪い谷間に差しかかった時だった。銃声がして、何頭かの馬のひづめの音が聞こえた。
「やば…」
 ボニーは小さく舌打ちをして腰のホルスターから拳銃を抜く。それに倣ってホームズもポケットから銃を取りだすが、それには弾が入っていないことに気付いて元に戻してしまう。
 彼らは山賊に襲われたのである。ボニーは自分の持っている銃をホームズに差し出した。
「俺が一発撃ったら馬を全速で走らせろ。俺の事なんか気にしないでいいからな」
 小声でボニーはホームズに言うと、荷物の中からもう一丁、拳銃を取り出した。彼らは五人の男たちに囲まれていた。
 ボニーが自分たちの進行方向を塞いでいる男の馬の足元に向かって引き金を引くと、驚いた馬が暴れてほんの少し隙間が開いた。ホームズは馬を走らせてその間をすり抜けた。
 安全だと思われる所まで馬を走らせると、彼はボニーを待つために止まった。そしてずっと握り締めていた銃に目を向ける。それは大きく、グリップなどは黒光りするほどに使い込まれた銃だった。
 銃声が三発、四発…。それは谷間で響き、遠くにも近くにも前からにも後からにも聞こえ、ホームズは慌てて銃を構える。片手だと銃口が下を向いてしまうくらいに重かった。
 急に銃声がしなくなった。ホームズは不安に駆られ、馬を反転させる。
「おい、無事か?」
 その声はボニーのものだった。
「良かった…」
 ホームズが安堵の溜め息を漏らすのを見て、岩陰から出てきたボニーが心外だ、といった表情をして見せた。
「命の恩人の腕はもう少し信用するもんだぜ」
 それ以後この日、彼らは何らかの事件に巻き込まれることもなく、無言で旅を続けた。

 ジリジリと照りつけるような太陽が沈み、涼しい夜の気配が忍び寄る夕刻、二人は小さな川に差しかかり、その夜はそこで野宿をすることにした。
 火を囲んで二人は無言だった。川のせせらぎがその世界のすべての音のようで、時折聞こえる狼の遠吠えさえなければ、ホームズの故郷、スコットランドの夜となんら変わりはしなかった。
 ボニーは煙草を吹かしていたし、ホームズは無事だったヴァイオリンを弾き始め、その物悲しいメロディは辺りに響き渡った。
「どうして私を助けた?」
 ホームズは楽器を下ろすと訊いたが、ボニーの答えは待たず、更に言葉を続ける。
「君はお尋ね者だろう? そうでなければあんな不便な、山賊の巣のようなところにいる理由はないし、あんなにも荒野の生活を知っているはずもない。狼を蹴散らす術を知っていたり、山賊をたった一人で手玉に取ったり…」
「だったら…? 俺をシェリフに突き出すかい?」
 ボニーは面白そうに尋ねた。否定はせず、そう訊いたのだ。自分のことがばれたというのに、彼はその情況をただ楽しんでいるらしかった。もっとも、いよいよ駄目だと思ったらボニーはホームズを殺してしまえばすむことなのだ。だからこそ彼は、自分の正体を知っていながら一緒に行動していたホームズのことを笑っていられた。
「それは…」
 ホームズは言葉に詰まってしまい、訊くのではなかったと後悔していた。
「俺はな、あんたが死体になっていなかったから助けたんだ」
 動揺しているホームズをしばらく面白がってみていたボニーはそれでも助け舟を出そうと、ホームズが最初に発した問いに答えた。
「私には、君がそんなに悪い人間には見えないんだ」
 ホームズは言葉に困りながら、そう言った。実際、彼の目の前で悪戯っ子のような笑顔を浮かべているボニーは無邪気にさえ見えた。
「そいつはどうも…」
 照れて頭を掻いているボニーはやっぱり根っからの悪人というわけではないようだ。
「ああ、そうだ。この銃を返しておこう」
 ホームズは思い出して、昼間渡された銃をボニーに差し出すが、彼はそれを受け取ろうとはしなかった。
「そいつはあんたにやるよ。この国、特にこんな荒野の真ん中では必需品だからな」
「しかし、この銃は大切なものではないのか? 随分と使い込んであるようじゃないか。それに私にはこんな大きな銃を扱えるかどうか…」
 もう一度差し出すが、やはり受け取ってはもらえなかった。
「俺はもう一丁同じ銃を持ってるし、もし扱えなくたって、お守りぐらいにはなるだろう。そいつを抜くだけで肝の細いのは簡単に逃げ出しちまう。何しろそれは俺の名刺代わりみたいなものだからな」
 確かに彼が昼間荷物の中から取り出した銃は同じ物のようだった。そうとはわかっていてもホームズはまだ渋っていたが、ボニーの一言でそれを貰い受けることにした。
「あんた、結構ヴァイオリン、上手いじゃないか。良かったらもっと何か弾いてくれないか。出来れば今度はもっと明るいやつを、さ。それでその銃のお代がわりってことにしとくからさ」
 それにしても、とボニーは思った。いざとなれば殺そうと考えていた人間に自分の銃を渡してしまうなんて…。そんな自分自身が可笑しくて自嘲気味に笑ったが、ヴァイオリンを弾き始めたホームズにはわからなかった。

 翌日は何の事件もなく、二人はだいぶ距離を稼いだが、それでも町までは遠く、夕方から雨に降られたこともあって、二人は雨を避けられる岩陰を見つけるとその日はそこで休むことにした。
「あんた、何をしてるんだ?」
 昼間は無言で馬を進めるため、二人は互いに何の話もしていなかった。
「諮問探偵をしている…とは言っても、一向に芽が出なくてね、生活のために役者をしているんだ。アメリカへも劇団と一緒に来たんだが、公演が終わった後一人別れて、放浪していたんだよ」
 ボニーは煙草を差し出し、ホームズが礼を言って受け取った。
「放浪の旅が随分、とんでもない所まで来たもんだな。どうせ、劇団の公演なんてワシントンとか都会での話しだろ? ここは滅多に外国人の旅行者なんか来ない西部だぜ。治安も悪いし…」
 雨の降る音と薪の弾ける音、それ以外は自分たちの声しかしなかった。
「君は?」
「俺か? 俺は…ニューヨークシティで生まれた。色々あってこっちの方まで流れてきてさ、あの人も確かイギリス人だったな…開拓に来ていた人に拾われて手伝いをしていた、何人かの仲間と」
 今は追われる身の彼は、自分の過去を話し始めていた。それ以外に、彼が話せることはなかった。
「あんた、探偵だって言ったよな。俺も似たようなことをしてた頃があるんだぜ。俺を拾ってくれた人が殺された時にさ。犯人はわかってたんだ。町の誰もが手を出しかねているならず者だった。シェリフでさえ怖れていたんだが、それでも決着を着けなければならない時はすぐに来た。シェリフは助手を集め始め、俺たちは志願した。恩人を殺されて黙っているほど、俺たちは大人しくなかったんだ」
 ボニーは言葉を止めた。雨は強くなっているらしく、耳障りなほどの音がしていた。焚き火にかけた小さなポットがシュンシュンと音を立て、ボニーがそれで珈琲を淹れてホームズに渡した。
「あんた、殺人、ってどう思う?」
 突然の問いにホームズはどう答えるべきか迷いボニーの顔を見たが、彼の表情からはその意図を汲み取ることが出来なかった。
「殺人か…。そうだな、人間は必ず死ぬものだろう、良いにしろ悪いにしろ…。殺人はそれを人為的に早めることだ。だからといってこれも一概に、悪いとも良いとも言えないのではないかな? 実際の所、早くこの世から去ってくれたほうが皆のためになるような人間もいるわけだし…」
 それがボニーの望むような答えであったかどうか、ホームズにはわからなかった。薄暗い明かりの中で、ボニーは微かに笑っているようにも泣いているようにも見えた。
「俺は人を殺してる。最初は12の時だった。それからシェリフの助手をした時。あの時は恩人の仇だったし、英雄にもなれた。しかし、今では殺す側から殺される側に変わってしまった」
 それは彼の過去で、話し終えたはずの話の続きだった。そしてそれは教会でする懺悔のようで、知り合って間もない友人にする話ではなかった。
「しかし、何の理由もなく殺人を犯したりはしないだろう、君は?」
「仲間の仇を討った…命を狙われて返り討ちにしたことだってある。そして、賞金首を狙ったことも…」
「それは正義のための殺人じゃないか。犯罪者を射殺するのだって、仇を討つのだって、ましてや自分の身を守るためならば…。この国ではそれが法律で許されているじゃないか。正義を正義として受け取れるように…」
 その言葉は慰めだったろうか? ホームズにはボニーが悲しんでいるように見えて仕方なかった。
「正義のための殺人、か…。だからって、殺人が殺人でなくなるわけはないのに…。本当に正義だというなら、どうして俺は犯罪者になったんだ? 確かに一時期調子に乗ったこともあったさ。でもそれだって、法の範囲内のことだったのに…。殺人が一人の人間の命を奪うものである以上、その人間の死の影には必ず悲しむ人間がいる。そして、殺人はあくまでも罪であり、正義にはなり得ないのではないだろうか…」
 ボニーは正義というものを信じてはいないようだった。過去の経験と、現在の逃亡生活が彼にそう思わせようと仕向けたのに違いあるまい。
「だからって、大人しく殺されるつもりはないし、仲間の死を放っておけるほど冷淡じゃなかった。そして、生活のために賞金首を狩ることをやめることなど出来るはずもなかった。俺だって生きなくてはならなかったんだから…。たとえ、死と隣り合わせの生活であったとしても、俺はそれを選んだんだからな」
 それは育った環境の違いか、その生い立ちのせいか、ホームズは正義のための殺人は存在すると言い、ボニーは殺人はどんな情況においても罪であると言った。
「大体、正義なんてのは誰が決めるんだい? たとえ法が守ってくれたとしても、殺される者やその家族にとっては常に悪であることにかわりはないんだ」
 ボニーは肉親を殺されたことがあるのではないだろうかと、ホームズは思った。それなのに彼は、敢えて殺人者としての道を選んだのだろうか…?
 ボニーの言葉は後々までホームズを悩ませるのである。

 翌日の夕方、二人は町が見えるところまで来た。
「もうすぐだな」
 そう言ってボニーは馬から降りる。
「俺はここで別れる。町に入ったらすぐにシェリフの所へ行け。ここのシェリフは結構親切だから、きっと助けてくれる」
 ボニーは出来るだけ町には近づきたくないらしかった。もっとも、町に行っても騒ぎを起こすだけだろうから、それは正しい判断だったが…。
 ホームズも降り、二人は馬を取り替えた。ボニーが自分の馬に荷物を積む間、ホームズは待った。それからお互いに向かい合い固く握手を交わす。
「ありがとう」
 今度はホームズも何の抵抗もなく礼を言うことが出来た。
「気をつけてな。あんたが無事に国へ帰れることを祈ってるぜ」
 二人は手を離し、ボニーは馬に乗った。
「また逢おうぜ。無事に国に帰れたら、また訪ねて来てくれよな」
 そしてボニーはホームズに手を振りながら夕日の沈む荒野へと馬を走らせた。
 ホームズは彼の後姿が大きな夕日の中に消えて、その夕日が沈むまで荒野を見ていたが、やがて町へ向って馬を歩かせた。
** *** **

「その町で逢ったパット・ギャレットというシェリフはボニーの言った通り親切な人で、僕は大した苦労もなく帰国することが出来た。それから暫くして…僕は彼が殺されたことを知った。再会を約束しながら、僕は結局彼に二度と逢うことは出来なかったんだ」
 長い話の間に、彼のパイプの火は消え、彼はもう一度パイプに火を点けた。
「ワトスン、君は殺人というものをどう思う?」
 いきなりホームズが訊いた。それは過去に彼自身が受けた質問ではなかったか? 私はその時の彼ほど答えに苦しまなかった、と断言することが出来る。
「罪だね。どんな理由があろうとも許されざる大罪だ」
 彼は大量の煙と共に溜め息を吐いた。
「しかし、君は戦争に行っている。そう、君自身は人を殺したりはしなかっただろう、医者として従軍したんだからね。それでも君は、ヒトを殺しているんだよ」
 何故ホームズはそんなことを言い出すのだろうか。事実、私は手の施しようがなく人を死なせてしまったという経験も少なからず持っている。だからといって…。
「僕が言っているのはね、君が救った兵士たちのことなんだよ。彼らは傷が治るとまた戦場へ戻って行っただろう。敵を殺すため、時には自分が死ぬために…」
「しかし、それは…」
「そう、国のため、だったはずだ。一人殺せば犯罪者で多くの人間を殺せば英雄。戦争なんてそんなものだろうし、それならば、戦争というのは正義のための殺人と言ってもいいのではないかい? 国のため、以外にも正義はあるべきだし、だったら…。僕はね、アメリカの法は良く出来たものだと思うよ。殺人が正義として認められている。君はそうは思わないかい?」
 私には答えることは出来なかった。いくら彼がアメリカの法律を良く出来たものだと認めていたとしても、我々がこの国、イギリスという国に住んでいる以上、この国の法律に従うしかないのだ。
「ワトスン。僕たちは一緒に事件の解決に当たってきたよね。そして、多くのことをしてきた。半年ほど前には家宅侵入をして、その上殺人を目撃したのを黙っていただろう。あれは誰かがやらなければならないことだったんだし、あの女性には復讐でも、世間一般には正義だった。それ以外にでも、僕らは犯人を見逃してきた事もあったし、色々な罪を犯した事だってあったはずだ。それでも君は、殺人だけを大罪と言えるのかい? 君自身もその片棒を担いでいなかったとは言い切れないのに…」
 それでも私は、殺人とは大罪である、と言うしかなかった。私はこのイギリスで生まれ育ってきたのだし、そして、医者という人命を救う職業に就いているのだから。
「僕は殺人を犯しているんだよ、8年前にライヘンバッハの滝で。あれは確かに正当防衛だったさ。そして、奴が生きていればあれから先も、何十何百の人間が苦しむことになったろう。そう考えた時、その行為は犯罪から正義へと変わったんだ。僕はアメリカから帰って、ずっと彼の言葉が心のどこかに引っかかっていた。今でも気にならないと言えば嘘になるけど、僕は僕の思うようにしか動けないし、今更考え方を改めるなんて出来ない」
 私に自分の考えが変えられないように、彼にもそれは無理なのだ。私に出来ることといえば、せめて、彼が犯罪者として追われることがないように見守るだけなのだ。
「僕はライヘンバッハで消えた後、アメリカへも行ったんだ。どんな形にせよ、殺人者となってしまった僕は、ボニーの墓の前で一言告げた。正義のための殺人は存在する、と…」
 ホームズは犯罪者になるには優しすぎる人間なのだ。だからこそ、その能力を犯罪ではなく、それを裁くほうに使っているのだし、正義、という大義名分が必要なのだ。
「ところでワトスン? 君もボニーを知っていると思うんだが、わからないかい?」
 ホームズは暗くなってしまった話を明るいものに置き換えようと、悪戯っ子のような笑みを浮かべて私に言った。それでも、ボニーという友人の話からは逸れたくないようだった。
「さぁ…?」
 私は首を捻った。確かに聞いたことのある名前だとは思ったのだが…。
 そんな私に、ホームズはもう一度銃を貸してくれた。
「グリップをよく見てみたらいい」
 そうヒントまで与えた彼は、面白そうにニヤニヤと私を見ている。その態度に少しむっとしながらも、私は言われた通りにグリップに視線を落とした。
 そこには、磨り減って読みにくくはなっているが、何か文字らしいものが彫ってあった。
「…B…I…LL……Y……ビリー…? ビリー! 君は彼に逢っていたのか!」
 コルト41『サンダラー』を使い、その生涯を通して殺した人間の数は、死亡した年齢と同じ21人。
 1899年7月14日、シャーロック・ホームズが友と呼んだ男は、ビリー・ザ・キッドだった。

 このアメリカの好漢は彼と意見を別にしながらも友と呼ばれた数少ない人物の一人なのである。



「生きろ」
 そう言われたから生きてきた。
 アノ人が死んだあの日。生も死もどうでもいいと思っていた俺に、ただ、生きろ、と言ったのは誰だったのだろう?
 
 

 17年、必死で生きたと思う。もう、いいよな………意識が……遠のく……遠くで…あいつらの…声が…する………。











 気が付くと俺は一本の道の上に立っていた。嫌なくらいに見覚えのある道。自然と足が震える。それでもその先にしか自分の帰る場所はないのだと知っている。
 いや、違う。俺は自分の手を見つめる。もう、あのころの非力な俺じゃない。今の俺なら……それでも、染みついた恐怖は拭えない。
「……かぁ…さん……」
 アノ人はもうとっくに死んじまってる。戻ったところで誰も迎えてなどくれない家に恐怖するとかどうかしてる。もっとも、アノ人に迎えてもらった記憶なんてどこにもないけど。
 ただ…もしもまだアノ人の骸がそのままあったらどうしよう、とは思う。腐って溶けて骨になってりゃいいけど、もしも、ミイラだったり、死蝋になってたりしたら。俺は…そこにアノ人の面影を見つけてしまって…どうするのだろう? きっと、恐怖の本質はそこにある。自分の感情の不確定さが…。
 それにしても…そもそもコレはナンだ? 俺はあいつらと一緒に西に向かって旅をしていたはずだ。なぜ、一人でこんなトコにいる?
 俺の躊躇いと疑問とは関係なしに足は勝手に家へと向かう。
 
 家が、見えてきた。
 バンッ、と玄関のドア大きな音を立てて男が一人、飛び出してきた。
「えっ……」
 男は俺の横をすり抜けるようにして行ってしまう。
 その男には見覚えがあった。
「………兄貴…?」
 ココは…あの日、なのか…?















 血が…流れてる。そいつはまるで生き物みたいに、おれの方へ近づいてくる。
「かぁさん?」
 おれがそう呼ぶといつも飛んでくる平手打ちが飛んでこない。
 おれはただ、かぁさんに笑っていて欲しかっただけなのに。
 なんでおれが生きててかぁさんがうごかなくなっちゃったんだろう。
 紅い、血。おれの色。かぁさんの大嫌いな色。
 ねぇ、かぁさん、そんなにおれのこと嫌なの?

 血はまるでその持ち主に嫌われていることを知っているように、どんどんどんどん流れ出てくる。

 溺れそうだよ、かぁさんの血で…おれの紅で…。
 「ねぇ…かぁさん…」
 伸ばしかけたおれの手は真っ赤で。この手で触ったらきっとまたぶたれる。
 おれは膝を抱えて丸くなって目を閉じる。
 笑った顔が見てみたかったな、かぁさんの…。
 きっと、すごくきれいだったんだろうな。町のみんなが言ってたもの。
 あにき、出て行っちゃったから、おれ、ここにいるね?
 起きたら、おれのこと、叩いても蹴ってもころしてもいいから…笑ってよ……。



「おい、ガキ!」
 いつの間に入ってきたんだろう、知らない人。
 あ、この人、おれとおんなじ色だ。
 この人もかぁさんに嫌われてたのかな?
 い…痛いよ、腕をそんなに引っ張らないで…。

 その人は、おれのこと抱え上げるようにして家から引っ張り出すと、そのまま町のそばまで連れてきた。
「生きろ!」
 一言だけいうと、その人はまっすぐにおれの目を見た。
 おれはうなづく。だって、かぁさんはもう、おれをころせないから。
 だったら生きるしかないし、この人の言うことはきかないといけない、って思ったから。
 その人は、ちょっと困ったような悲しいような顔をしてそれでも笑って、おれの頭に手を置いてやさしく二度叩いた。
「生きろ」
 もう一度そう言うと、その人はおれの家の方へ行ってしまった。





















 ああ、やっぱりそうか。これは、あの日だ。

 ガキの俺を町に置いて、俺は戻った。
 アノ人の死に顔を見るために。
「かぁさん…」
 そこに死んでいるのは小さな女で。笑顔ならさぞや美人だったんだろうな、とわかる。
 恐怖も恨みもなかった。
 だって、そこにあるのは、ただの死んだばかり女。
 躊躇や恐怖の源は、きっと、弔ってやれなかったことへの後悔だったんだろう。
 死ぬ前に見る走馬燈とやらが、この過去だったなんてな。
 夢のくせに覚えてないアノ人の顔がやけにはっきりわかる。
 触れたくても触れられなかった、アノ人の手、頬、髪。
 静かに触れて、抱き上げた。
 裏庭にちょうどいい場所がある。
 シャベルは倉庫にあった。
 丁寧に埋めてやる。
 手向ける花は、ない。
 それを残念に思って、しばしその場に佇む。
 足元に落ちているのは…アノ人の…指輪?
 ホント、ちっせぇ。俺の小指にも入りゃしねぇ。
 こんなちっせぇ女が怖かったなんて。

 でも…彼女が、おれのせかいのすべてだったんだ…。
 小さな指輪を握りしめる。


 ああ、そう、か…生きろ、と言ったのは俺で、おれはその約束を必死に守って生きていたのか…。
 じゃぁ、まだ…死ねねぇな…。
 あいつらんとこ、帰らねぇと。




















 ふ、と目を開けると見慣れぬ天井で。長い旅の最中で。
 アノ人の墓の場所がわかったのはあの日から17年後で。おいそれとは行ってみることもできないことがもどかしい気がした。

「悟浄、目が覚めました?」
 心配なんてしてませんよ、とでも言いたげな表情で、八戒がのぞき込んできた。
 そうやってのぞき込んでるだけで十分心配してたことはわかる、って。
「…俺……」
 手に何かを握っている気がする。
 そろそろと身体を起こすと八戒が手伝ってくれた。
「3日も起きないから……」
 俺の状態を説明している八戒の言葉を聞き流しながら、手を開いてみると、そこには小さな指輪が一つ。
「なんです、それ?」
「さぁ?」
 俺は言葉を濁す。てか、俺にもわかんねぇし。
 夢で行った場所のもん、持って帰ってきた、なんて信じらんねぇ話だし。
 立ちたい、というと八戒が肩を貸してくれる。
 鏡を見る。
 そこには、困ったような悲しいような顔で笑顔を作る男が映っていて。
「まだ、生きるぞ…」
 その男につぶやくと、八戒があきれたようにため息をついた。
「当たり前じゃないですか。あなた、殺したって死なないでしょうに」
 自分への約束だ、などと言ったらこいつはどんな顔をするんだろう。




 旅が終わったら、花を手向けにアノ人のもとへ行こう、と心に決めた。
 それまでは「生きろ」
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