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くれないづきの見る夢は 紅い涙を流すこと 透明な血を流すこと 孤独にのまれず生きること
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「今夜は帰らねぇから」
 悟浄が戸口に立って、言う。
「はい…」
 どんよりと曇った空は今にも雨が落ちてきそうで、その空を見上げる二人の間の空気は一瞬、澱んだようにも感じられた。
 雨が降りそうです、行かないでください。思わず出かけた言葉を飲み込む。
「傘、持たなくていいですか?」
 飲み込んだ言葉のかわりに、取ってつけたように言って、僕は玄関口の傘を手に取った。
「いらね」
 短い答え。悟浄はいつもそうだ。もう降り出している雨を見ていてさえ、傘を持とうとはしない。
「そうやって、濡れた服を乾かすの、僕の仕事なんですからね?」
 寂しいと思う気持ちを飲み込んで、僕はにっこりと微笑んだ。
 つい、と逸らされる悟浄の視線。いつもと違う様子に、僕は悲しいと感じてしまう。
「…いってらっしゃい…」
 それでも、悟浄の戻ってくる場所はここなのだという事をはっきりと教えるように、僕はいつも通り、送り出す。
「ん…」
 短く返事を返すと、悟浄は今にも振り出しそうな空の下、出て行った。

 僕は悟浄に甘えているのだと思う、雨のあの夜、拾われてから、ずっと…。
 僕が雨の日に精神のバランスを崩しやすいと知った悟浄は、雨の日は極力僕の側にいてくれた。
 いつしか僕の中ではそれが当たり前になってしまっていて、彼のその行為に甘えてしまっていたのだ。
 指先から冷たくなってゆくような、縋る物もなく、ただ、死を待つような…そんな孤独が、悟浄が側にいるだけで薄れていく、そのことが今更ながらに僕にとって、いつしか何物にも替えがたい物になっていることに、今の今まで気付かなかった。
 逸らされた視線、彼がいない、ということ。
 降り始めた雨は、いつも以上に僕を孤独にさせた。
 人は…孤独で死んでしまえるのではないだろうか…。

 夜中になっても雨は止まず、寝付けない僕はキッチンでお酒を飲んでいた。
 この家にある中で一番、アルコール度数の高いもの。酔い潰れてしまえたら、と杯を重ねても、酔いすら巡ってこない自分の肝臓の強さに苦笑する。
 深夜ラジオが大音量で流れている。
 雨音を消すため。
 何の内容もない会話と、何がおかしいのかわからない馬鹿げた笑い声。
 内容が頭に入らないせいで、その笑いは僕への哄笑に聞こえる。
『あれが、愛する女一人守れなかった、情けない男さ』
『あれが、愛する女に目の前で死なれた、哀れな男さ』
『あれが、狂気に支配され妖怪になってしまった、バカな男さ』
『あれが、雨の日には一人でいることすらできない、悲しい男さ』
『あれが…』『あれが…』『あれが…』『あれが…』…………
 それでも、雨音よりはマシだと思う。雨音は彼女の声に聞こえるから…。
『…さようなら、悟能…』
 悲しい笑顔と共に思い出される彼女の声。
『さようなら…』『さようなら…』『さようなら…』
『あれが…』『あれが…』『あれが…』
 言葉が、僕の中でこだまする。

 ざぁざぁという音に意識が浮上する。
 僕の嫌いな、雨、の音。
 どうやら、テーブルに突っ伏して眠っていたらしい。顔を上げると、くらり、と眩暈がした。
 深夜ラジオの放送がいつの間にか終わっていたらしい。僕を起こした音は、雨の音ではなくて、ラジオのノイズ。
 自分のものとは思えない重たい体を引きずるようにして立ち上がり、ラジオのスイッチを押す。
 パチン、と軽い音がして耳障りなノイズが止む。
 途端に聞こえてくる、雨の音。
 ざぁざぁざぁざぁ…
 身体が竦む。眩暈が止まらない。
 やっとのことで立っている、僕。足元の地面が崩れてゆく感覚にただひたすらに耐えた。
 ざぁざぁざぁざぁ…
 それは…僕の心の中のノイズ。
『さようなら…悟能…』『さようなら…』『さようなら…』
 エンドレスに聞こえるのは…花喃の声。

 僕の…ノイズ…

「…っかい…」
 遠くで誰かの声がする。
 八戒? 誰のことだろう? 僕の名前は…猪悟能…
 肩をガシリと掴まれた。その痛みに僕は顔を顰める。
「おい!! 八戒っ!」
 目の前に、紅い色が広がっている。
「…悟浄…?」
 心配げに僕を見つめる紅い瞳と視線があって、僕は、ふっ、と安堵のため息を漏らした。
「今夜は帰らないんじゃなかったんですか?」
 安堵したことを知られたくなくて、視線を逸らしながら、言う。
「そんなに濡れて…その服、洗濯して乾かすの、誰だと思っているんです?」
 いつものように少し棘を含ませて、笑った。
「わりぃ…」
 いつもの悪びれない口調とはまったく違う声で囁かれ、僕は急に抱きしめられてしまった。
「ちょっ…悟浄! 僕まで濡れちゃうじゃないですか!」
 あまりに急な出来事に僕は硬直し、慌てて彼から逃れようともがく。
「いいから…」
 耳元で囁かれて、僕は動きを止めた。
「強がんなくても、いいから…」
 悟浄から匂う、僕の嫌いな雨の匂い。それよりも好きな、彼のタバコの少し甘い匂い。
 悟浄の体を包む、冷たい雨の気配。それよりも暖かい、彼の体温。
 窓の外から聞こえる、彼女の声にも似た、雨の音。それよりも間近に聞こえる、彼の心臓の、生きている、音。
 悟浄の気配に包まれて、頭を軽く撫でられると、僕はそのまま、意識を手放していた。






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 カチャリ…
 乾いた音がして、僕のポケットから落ちた物を、すぐ横にいた三蔵が拾った。しばらくそれを眺めた後、僕の手に押し付けるようにして返してくれる。
 何か言いたそうにしているが、彼はいつものように何も言わない。だから、僕も聞き返すことはしない。いずれ、話さなければならないにしても、それは今、この場で話さなければならないことではないからだ。
「あれ? 持って来てたんだ、それ」
 僕の手の中に納まったそれを、悟浄が覗き込むようにして聞いた。
「ええ」
 僕は短く答える。捨ててしまうことなど出来るはずもないですから、言いかけて、その言葉は飲み込んだ。

 壊れた懐中時計。僕の時間も4年前のあの日から、止まったままなのかもしれない。花喃が僕の前から連れ去られたあの日から…。


 八百鼡、と名乗った女性が自らの咽喉元に小刀を当てた時、僕は確かにそこにいたのに、3年前のあの場所にいるような錯覚に陥ってしまった。
 僕はまだ、あの時間に囚われているのだ、と思い知らされる。
 動かない時計、進まぬ時間。


 三蔵と二人きりになった部屋で、彼が言った一言は、ずっと彼が言い出したいと思っていて言えなかった言葉、だったのだろう。
「お前は、お前の思う道を進めばいいんだ」
 静かに告げられた三蔵の言葉に、僕は常にポケットに忍ばせている壊れた時計を握り締め、答える。
「今ここにいるのも、ちゃんと僕の意志です」
 うまく、微笑むことができただろうか? それに…
「それに、保父さんは必要でしょう?」
 タイミングよく賑やかな二人が登場し、三蔵と僕の会話は途切れた。


 賑やかな二人を宥めてようやく落ち着きを取り戻した部屋で三蔵は疲れたようにため息をつき、新聞を広げる。
「あの、三蔵?」
 彼が新聞から目を離し、煙草を手に取ったのを見て、僕は淹れたばかりのコーヒーを差し出しながら声をかけた。
 添えて出す、砂糖とミルク。砂糖を多く入れるときは本当に疲れている時だから、その後の言葉を言ってもいいかどうか、目安になる。
「なんだ?」
 疲れているようならまたの機会に、と思っていた僕は、三蔵がブラックのままそのコーヒーに口をつけたのを見て、言葉を続けることにした。
「僕の我侭、聞いてもらえますか?」
 無言で僕の顔を見る三蔵は目だけで話の続きを促してくれた。
「次に入った大きな町で…この時計を修理に出そうと思います」
 ポケットからそっと取り出した時計を彼に見せるように差し出す。
「ああ」
 ちらり、と僕の手の中にあるそれに落とされる視線。4年前のあの日、1時23分で止まったままの時。
「きっと、すぐには直らないと思うんですが…」
 三蔵につられるように見入っていたそれから視線を無理矢理はがし、僕は問う。
「いいぞ。直るまで滞在すりゃいいんだろ」
 言下に、しょうがねぇなぁ、とでも言いたそうな声を滲ませて、呆れたようなため息までつきながら、それでも三蔵は僕の我侭を聞いてくれる、と言う。
「ありがとうございます」
 囚われたままの時を引きずって、それでも生きているのだと、生きてゆくべきなのだと教えてくれたのは、彼。
 ずっと動かなかった僕の時を少しずつ動かしてくれたのは悟浄で、そんな概念など吹き飛ばすような日常を与えてくれたのは悟空。

 僕は…僕の時を動かしてもいいですか? 花喃…。


 悟能…悟能…彼女が僕を呼ぶ声が聞こえる。
 ただの認識番号のようでしかなかったその名前を、僕のものなのだと教えてくれた彼女の声が好きだった。
 今、僕のその名を呼ぶのは耳障りな声。確かに記憶にあるのに、思い出したくない、覚えていないその声が、僕に執着する。
 彼女の血を浴びた…3年前の記憶が甦る。男にねじ伏せられた痛みよりも強烈に、心が痛い。
「八戒…お前は、猪八戒だろうが!!」
 僕の時の歯車を少しずつ動かしてくれた、悟浄の声がやけに鮮明に聞こえた。ここはあの時じゃない『今』だ。
 傷だらけでふらふらになりながら、それでも笑顔で戻ってきた悟空のいつもの一言に、意識は一気に現実へと引き戻された。


 三蔵と男を追っているうちに、僕はすべてを思い出していた。
 彼女が死んだ時、その場に居た男の顔、その言葉。三蔵の言った「復讐という形」が目の前に現れたような気がして、眩暈さえ起こしそうな焦燥感に囚われる。
 だから、確認した。
「僕は、ここにいてもいいんでしょうか」
 自分が今いる場所が、今いる時間が間違いではないと、確証が欲しかった。
「お前は俺を裏切らない。そうだな」
 それは確証でもなく、純然たる事実として僕の耳に突き刺さる。いてもいいのではなくて、いなければならないのだと、教えられた気がして、揺るぎ始めていた足元がしっかりしていることに安堵した。


 男の言葉に動じない三蔵に僕は救われているのだと、はっきりと認識する。もう、誰も傷つけさせたりしない。僕の過去を知っていて、それさえ含めて、僕を受け入れて、僕の時を動かしてくれた仲間たちを、僕は守りたいとその時、確かに思っていた。
「貴方が悦びに、悶え苦しむ表情を」
 その、男の声を聞くまでは…。
 体を巡る、すべてを破壊したいと願う衝動をどうすることも出来ない。心と身体の均衡が崩され、僕の手は三蔵へと伸びる。
 僕はこの男に妖怪にされてしまった…男の一言が僕の精神の均衡を崩し、僕はどこまでも落ちてゆく。
 また、それに抗えないのか…
 カチッ。
 小さな音が聞こえる。
 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。
 単調に時を刻む時計の音。
 悟能、悟能、囚われないで…。
 それは僕の大切だった人の声。ポケットに大切にしまってある時計の時を刻む音。
 そうだ、僕の時間はあのときに止まってしまったわけではない。あの時と同じには、ならない。僕は『今』を生きている。
 もう、誰も…僕の大切な人たちの誰も、死なせはしたくない。


 僕には過去も未来もある。いくら穢れようと、その穢れを洗い流し、時には押しつぶされそうになりながら、それでも生きて行く。
 悟空に書かれた油性ペンの生命線を眺める。
「いーんでない?」
 もっと生きて、いーんでない? 悟浄の言葉が優しく僕の心の中に落ちてきた。
 ポケットの中の時計を握り締める。
 僕の時は動いている。
 これからもずっと、彼らと共に動いていたいと、心からそう思う。


 僕の命が尽きて僕の時が止まってしまう、その時まで、君は僕を見守っていてくれるだろうか、花喃…。






【悟浄&八戒】

 俺だけじゃないんだ、と知ったのは、八戒と暮らすようになってから。
 もうずっと、辛いのだとか、自分は不幸なのだとか思ったこともなかったけど、八戒の境遇は、そんな俺から見てもかなり、辛そうで…。
 雨の日、塞ぎこむ奴を見るのは…正直辛かった。
 俺に出来ることといったら…ただ…それを見つめているだけ。

『つらいめばかり会う
 きみのためにできるのは
 僕がそれを知ること』

 たった一度、まだ名前さえ知らなかったあの時に聞いた、八戒の心の闇。
 それきり、話そうともしないで、ただ、雨の日には辛そうに眉根を寄せてぼんやりとしている。
 泣くことさえせず、それでも奴が泣いていることが俺には手に取るようにわかった。
 吐き出しちまえよ、何度もそう言いたかったのに、いつもその言葉は俺の腹の中から吐き出されることはない。
 それが、さらに、奴の痛みを激しくすることがわかっているから。

『一人で抱えて泣く
 きみのためにできるのは
 その痛みを感じること』

 自分の行く道さえも見失って、それでも生きてゆこうとしてくれているのは…友人に恵まれたからだ、と言った八戒。
 その、友人、の中に俺も入っているのか?
 自らの意思で失った右目が見ているであろう闇の中、あいつは歩き続ける。
 約束など出来ないけれど…その先にあるものは…暖かいのだ、と…ただただそう願って、俺も共に歩むから。

『目の前に光はなくても
 くらやみに慣れた目は
 足元の道を見つける
 明日はいつも 優しいから』

 一緒にいることしかできないけれどお前は一人じゃないんだ、と、そう言ってやることさえ出来ないけれど、お前の微笑が俺たちを救ってくれたのは一度や二度じゃないから…。

『二人で奏でよう たからもののうた』


【悟空&三蔵】

 ずっとずっと呼んでたんだ、孤独から連れ出してくれる誰かを。孤独がどんなに辛くて寂しいのか…俺はもう、痛いほど知ってるから、誰にもそんな思いはさせたくないんだよ。
 だからさ、俺、もう、三蔵の側から離れねぇから。三蔵が嫌だって言ったって、ずっとずっとそばにいるから。
 三蔵が見えなくなったら、俺、絶対探し出してみせる。一人じゃ、寂しいだろ?

『きみと出会えた
 おかえしにできるのは
 これからも隣にいること
 一人が好きな
 きみのためにできるのは
 朝が来るまで 探し続けること』

 いっつもいっつも、苦虫を噛み潰したみたいな顔してさ、何がそんなに面白くないわけ?
 八戒も悟浄も俺もいんのに、どうしてそんなにつまらなそうな顔ばっかしてんの?
 八戒がさ、言ったんだ。俺と三蔵を足して二で割ったら丁度良くなるのに、ってさ。それって酷くねぇ?
 でもさ、俺、思ったんだよ。俺、三蔵となら足されちゃってもいいかな、って。
 そしたらさ、もう、一人じゃないじゃん? 俺、三蔵と一緒なら、何処にだって行けるし、何だって出来そうな気がすんだけどなぁ。

『きみのブルーで
 ぼくの黄色は
 みどりになって
 まざりあう 風の色』

 俺さ、ずっと忘れられないんだ、三蔵が差し伸べてくれた手のこと。「連れてってやるよ…―仕方ねぇから」そう言った言葉とは裏腹にけっこう楽しそうだったじゃん、三蔵。
 俺に、呼ぶための名前を与えてくれた…

『今も思い出せる 
 ぼくの大好きなメロディ
 出会えて ホントよかった
 たからもののうた』






 悟浄が火を点けようとした何本目かの煙草を、僕は取り上げる。
 町に着いて、宿に入ると悟浄は立て続けに煙草を吸いだした。
「僕も、悟空の意見に賛成ですね」
 今回はツインの部屋を二つ取ることができたので、悟浄と僕、三蔵と悟空という一番無難な部屋割りにし、当然のことながら、今は部屋で二人で過ごしている。
「あ?」
 なんだよ、それ? 何が言いたいわけ? といいながら僕から煙草を奪い返し、火を点けようとするので、今度はライターを取り上げた。
「ため息」
 僕は指摘する。
 今日、ジープの中で悟浄が大きくため息を吐いた。
 つまんねぇなぁ、とか、綺麗なお姉ちゃんいねぇよなぁ、とか、そんないつもの道化たため息ではなく漏らされたそれは、悟浄自身意識していなかったのだろう。
 本人が意識していないために止まるところを知らないそれに、悟空がいい加減焦れたかのように言ったのだ、悟浄にため息なんて似合わねぇよ、と。
「そんなん、知らねぇよ」
 吐き捨てられるように言われたその言葉は、どこか空虚に響く。
 僕は、悟浄がため息を隠すために煙草を吸うことを知っているから、少し諦めにも似た心境で、彼の咥える煙草に火を点けた。
「あんまりため息ばかり吐いていると、幸せが逃げちゃいますよ?」
 僕の言葉を、悟浄は、ふんっ、と鼻で笑う。
「幸せ? 生憎とそんな不確かなもん持ち合わせちゃいねぇし。それに…」
 いかにも不味そうに、煙を吸い込む彼は言葉を続ける。
「そんなマヤカシに縋るほど、落ちてもねぇ」
 そう言って吐き出された煙はやはり、ため息のようで…。
 不確かな幻。それは違う、と僕は言う。
 自分の失ってしまった物は確かにそこにあったし、あったからこそ失って悲しかったのだから。
 自分とよく似た姿をした、失ってしまった幸せ。
「それにね…」
 僕は言葉を続ける。自分は今、とても幸せなのだ、と。
「あなたに命を救われて、三蔵に生き続けることの意味を教わった。そして、悟空に、あの笑顔でいつも励まされて…。こうして旅を続ける毎日は、今の僕にはかけがえのない幸せなんですよ」
 僕は、笑う。そんな何でもない毎日がとても幸せなのだと。
 そして、悟浄に聞いた。
「あなたは、幸せですか?」
 否定はされなかった。ただ、さぁな、と短く一言だけ答え、彼はもう一度、大きく煙草の煙を吸い込む。
「こんな生活がいつまで続くのか…」
 その感情が殺された声に僕は問う。
「嫌なんですか?」
 悟浄は、どうなんだろ、とため息と共に煙を吐き出した。
「ま、今の情況じゃナンパもできねぇし、いっつもおんなじ面子で刺激も少ねぇし。でも俺は、この毎日が続くのが当たり前だと思っちまってて、この時間がなくなるなんて考えられねぇんだよ」
 今度は、煙草の力も借りず、大きくため息を吐く。それがきっと、彼のため息の理由。
「それが、幸せ、ということではないんですか」
 僕の言葉に驚いたような顔になり、悟浄は唇から落ちかけた煙草を利き手の人差し指と中指で挟んだ。
 まいったなぁ、そう呟くと、幸せなどないと言った男は、額に煙草を挟んだままの手をやって面映そうに笑った。
 毎日、問題は尽きないし、僕らに課せられたものは大きいけれど。
 こうして4人、旅を続けられるのが今の、僕らの幸せ。





【side 悟浄】


 強烈な吐き気に襲われて、便所に駆け込む。
 手洗い場の蛇口を目一杯に捻り、そこに手を置いたまま、俺は胃の中身を吐き出した。
 酒で腐った胃液と、その胃液で腐ったコーヒー…そんなものしか出てきやしねぇ…。

 俺はもともとそんなに喰う性質じゃない。
 俺がまともに物を喰うようになったのは、あいつと暮らし始めてから。あいつの作る飯が旨かったから。
 あと…あの猿。あの猿が旨そうに喰ってると無性に腹が立って、ついつい張り合って…その後に俺が胸焼けや胃痛で苦しんでるなんて、誰も知りゃしねぇだろうけど。

 吐き気が止まらない。蛇口に口をつけるように水をがぶ飲みして、また、吐いた。そんなことを、何度も何度も繰り返す。
 ここ3、4日、固形物を口に運んでない気がする。冷蔵庫に残っていたチーズを、それでも、と思って食べたのが、きっとそんくらい前。んで、家の中の食べ物は底をついた。
 ほんのさっき、飲み干したのが多分、最後の酒。
 煙草だってもう1カートンも残っちゃいない。
 買出しに行くか、と立ち上がったらこの有様で…。
 顔を上げると目の前の鏡から、紅毛に紅い瞳の男が真っ青な顔で目の下にどす黒い隈を作って、こっちを睨みつけてきた。

 3週間前、あいつが出て行った。
 書置きも何もなく、ただ、普段ならいるはずの時間にその姿が見えなくて…。
 ま、あいつも一人前の男だし? いつまでも俺に喰わせてもらってるってのも嫌なんだろう、と、そう思った。
 でもさ、出て行くなら出て行くで挨拶の一つくらいしたって罰は当たるめぇ?
 ちょっと癪に障ったが…気ままな一人暮らしに戻っただけだ、そう、それだけ…。
 いつものように賭場に行って女引っ掛けて…帰る時間なんて気にしなくていいのはすんごく楽で。
 そんな風に思って過ごせたのは…最初の一週間…。

 ガクリ、と膝から力が抜ける。便所の床に無様に座りこんで、俺は自棄になって笑った。
 それ以外に、どうしろってんだ?

 だんだん、すべてが色褪せてゆく感覚をとめることができなくなっていった。
 俺が手料理に拘ると、作ってくれる女はいたけど、あいつの作ったものほど旨いとは思えなかった。
 何の目的もなく生きているのが辛く感じられた。
 もともと、目的なんて持っちゃいなかったのに、そんな生活に戻っただけなのに、ほんの僅かな、あいつを喰わせる、って目的がなくなっただけなのに…どういうんだろうな、これ…。
 ギャンブル依存症、恋愛ゲーム依存症、煙草依存症、アルコォル依存症…八戒、依存症…ははっ……笑えねぇ。

 また吐き気に襲われる。足に力が入らず、立ち上がることさえできなくて、そのまま這いつくばって便器まで移動する。
 便座の蓋を開けるのももどかしくそこに頭を突っ込んで、吐いた。
 苦い胃液を何度も何度も…咽喉の奥に焼け付く痛みを感じて、血が混じった胃液を何度も…。

「胃液がなんでも溶かすんなら、どうして胃は溶けねぇの?」
「それはね、胃には粘膜というものがあって、胃壁を守っているから、胃は溶けないんです。でもね、その粘膜が弱ってると、胃が荒らされて胃潰瘍という病気に…って、聞いてないですねぇ…」
 あいつと猿の会話。

「ちょっと、悟浄。仰向けにならないでっ。自分の吐しゃ物で窒息死、なんて間の抜けたことにはなりたくないでしょう?」
 酔って吐いて、寝っころがった俺に忠告をした、あいつの声…。

 んじゃぁさ、今みたいに咽喉につっかえるもんもなく吐き続ける俺が仰向けに寝っころがったら…胃液が肺に逆流して、俺の肺は溶けちまうのか…?
 馬鹿げた疑問。
 試しに転がってみるか、と馬鹿なことを考えて便器から頭を上げりゃ、また、吐き気。
 もう、胃液さえも出て気やしねぇ…。
 それでも、吐く。もう、泪が滲む、なんて生易しいもんじゃなく、ぼたぼたと目からそいつは落ちる。
 出るものもないのに、吐き続ける。
 やがて出てくる真っ赤な液体…それが咽喉からなのか、胃からなのか…わからないけど…その命の色をしたものを吐いて…少し気が楽になった。

 俺が吐き出しちまいたいのは…この苦い思い…独りになる寂しさ…依存されることに依存していた、愚かな自分…
 そして…救われない愚かさを開放するために…己の命を吐き出してしまいたいのかもしれない。

 玄関のドアが開いたようだ。誰も来る予定なんてなかったが、もう、どうにでもなれ、って心境で、俺は動かない、っつうか動けない。
「あ~あぁ…」
 聞き覚えのある呆れたような声…んなわけあるか、あいつは出て行ったんだ…。
 名前を呼ばれているような気がして…それさえも自分の幻聴かと思うとおかしくなった。
「悟浄っ!!」
 心配そうなあいつの声を最後に、俺は便器を抱えたまま、意識を手放していた。



【side 八戒】


「なんで、そんなに急ぐんだよぉ、八戒ぃ」
 悟空が僕をジープの助手席から不思議そうに見て聞く。
「だって、悟浄が心配でしょう?」
「どうしてさぁ? なんでエロガッパが心配なわけぇ?」
「…悟浄が、というよりも…うちが、ですけどね」
 僕は苦笑する。
 3週間も留守にして、きっとごみ溜めのようになっているであろううちの中を想像して、それ以外の表情を浮かべようもなかった。
 三蔵の依頼でジープで片道10日ほどの街まで使いに出た。今回の同行者は悟浄ではなくて悟空。
 なぜだか気が急いて、ジープに無理をお願いしてその行程を7日に縮め、さらに2週間はかかるであろう用事を1週間で終わらせた。

 悟空を三蔵の許に送り、報告を済ませると帰路を急ぐ。
 悟空には言わなかったけれど、悟浄のことも心配だったから。
「あ~あぁ…」
 玄関を開けた途端に思った以上の惨状が目の前に広がっていて、僕は思わずため息をついた。
 それにしても…ひどすぎないだろうか?
 一抹の不安に襲われる。
 悟浄はずぼらそうに見えてけっこう几帳面だ。ここまで散らかりっぱなし、というのはありえない、気がする。
「悟浄?」
 呼んでみるが返事はない。部屋に灯りはつけっぱなしだし、家にいることは確かだろう。
 かすかな物音に、僕はトイレのドアを開ける。
「悟浄っ!」
 便器を抱えるようにして意識を失っている彼を…発見した。

 病ではない、と医者は言った。ただ、衰弱しているのだ、と。その原因は、栄養失調。
 点滴の管に繋がれて眠る彼の顔は、かなりやつれている。髪も艶がなくて、ぼさぼさで…何があったのだろう、とそればかりが気にかかる。
 栄養剤の点滴…外し方は知っているから、と言うと医者は帰っていった。
 眠っている彼を起こさぬように部屋を出て、片づけを始める。
 気になって5分おきに部屋を覘くものだから、一向に片付かない。
 それでも、家中の食べ物が底をついていることだけは知れた。
 食料調達もままならない、何かがあったのだろうか?

 掃除を終えて、悟浄の部屋に行く。
 点滴が終わっていたのでその針を抜くと、血。
 あれだけたくさんの血を見て、あれだけたくさんの命を屠ってきたのに、その僅かな血の色に、僕は怯える。
 彼の命が流れ出していくようで…慌ててそれを隠すように医者から貰っていたガーゼでその針の跡を塞いだ。
 眠ったままの悟浄の横に椅子を置き、僕は読書を始めた。
 一行読み進めるごとに、悟浄を見る。内容が頭に入ってこない。

 活字中毒だ、と言われたことがあった、と思い出す。
 が、僕に言わせれば、それは、物語り依存症。本の世界に入り込めば自分を解放できるし、自分の置かれた現状から逃避できる。
 それ以上に僕は最近、悟浄に依存している、と思う。
 悟浄が出かけるのを見送って、家の中を綺麗にして、ただ、彼の帰りを待つ。そんな主婦のような生活に、ぬるま湯の中に漬かりきっているような毎日に、僕は安堵し、依存し続けていた。
 それじゃ駄目だとわかっていたから今回、悟浄には内緒で三蔵の仕事を請けた。いつまでも僕と言う荷物を彼に背負わせるわけにはいかない、と思ったから…。
 なのに…そう思って出かけても気になるのは悟浄のことばかりで…僕はもうすっかりと悟浄に依存しきっているのだ、と思い知った。
 そう、悟浄のことを心配して、世話を焼いている限り、僕は僕の問題に向き合わなくてすむから…
 こういうのを、共依存、というのかもしれない…。

 焦点の定まらぬ目で、悟浄が僕を見上げていた。
「…はっ…か…い…?」
 吐き続けたせいで咽喉をやられた悟浄の声はしわがれていて聞き取りにくい。
「お目覚めですか?」
 僕は微笑んでみせる。
「…な…んで…?」
 驚いたように、不思議そうに僕を見上げる悟浄に、僕は疑問を感じる。何をそんなに驚いているのだろう?
 出て行ったんじゃなかったのか? と悟浄が言った。
「…僕、言いませんでしたっけ? 三蔵の依頼で一ヶ月ほど留守にします、って」
 寝起きで、頭が働いていなかったようだけれど、確かに言った、いってきます、と…。悟浄は寝惚けていて聞いていなかったのか…。
 僕はため息をつくと苦笑した。
「だいたい、出て行けるわけがないじゃないですか。あなたがちゃんとごみの日を覚えてくれるまでは、ね」

 僕は悟浄の部屋を出る。何日も何も食べていなかったらしい彼に重湯を作るために。どうやら痛めたらしい咽喉のことを思うと、冷めたものの方が良いだろう。
 しばらくは、そんな美味しくない食事で我慢してもらわないと。

「俺、さ…八戒依存症、みてぇだわ…。お前見たら…安心した…」
 ポツリと呟かれた言葉。
 僕は聞こえなかった振りをする。弱音を吐くのを見られたがらない人だから、悟浄は…。
 閉じたドアに背を凭れさせ、僕もですよ、と呟く。
 お互いに相手に依存されることに依存していたなんて、お笑い種だけど…男同士で友情以上なんて、この程度でしかありえないから。
 お互いに恋人を持つようになってもこの関係は続くのだろう、と思うとそれが少し楽しいと感じてしまう、僕は…どこまでも彼に依存し続けて生きてゆく。





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夏風亭心太


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